俺の作曲活動を邪魔しちゃマズいと思っている数人の人達へ。

2025年05月18日

俺はすでに、全国区の人達を満足させられるだけの楽曲を、一般的アーティストの所有楽曲の平均以上に持っている状態です。(=一般的感覚の想像をはるかに超えた楽曲群を持っている状態)

これからの作曲活動は、さらなる高みへ向かうための活動であるため、そういう気遣いはあまり必要ないです。=持っている楽曲を増やしていくための活動。=資産(商品&開発)を増やしていくための活動です。

切羽詰まった楽曲づくりではないという事です。

しかし作曲活動において、少し作っては一週間や一か月空けて再びその作業をしていくという行為には無理があり、

そのため継続的でなおかつ余裕のある時間を確保するため、俺は仕事を辞めて計画性を持ってこういう形に持ってきたというだけです。

予定では今年の1月か2月ぐらいに辞めようとは思っていたけれど、なんだかんだと延びて、この時期になったという感じだという事。


どうであれ、今回の作曲活動が、切羽詰まった作曲活動ではないという事を把握しといてくれればいいと思います。


ホントいい曲の数々がひたすら待機している状態なので、スターになりたいボーカリスト達も(俺の楽曲を歌えば、イヤでもスターになります)、俺を助けたいパートナー候補の女性達も、その他の人達も、

俺に対して気は使わなくOKですという事です。


とりあえず今は2025年の一発目の新曲制作の途中だけど、キビシイ状況が続きながらも、B級とA級の境界をさ迷えるような形にまではなってきたかなという状態とはなってます。(まだ2分ぐらいのメロディだけど←1週間ぐらいかけてまだ2分間ぐらいの出来です。)

だいたいは4分以内にどんなメロディーを詰め込んでいくかが作曲の基本とはなってます。

それは同じフレーズのメロディーを4分間も続けていけば、誰であろうと飽きてしまうからです。

聞き手をできるだけ飽きさせないためのメロディーを約4分間以内に詰め込んでいく作業、その構築作業が大変なんです。

まずは、作曲者自身がそのメロディーに対して聞き飽きないこと。

ここをできるだけ突破しないと、演奏者も、歌い手も、聞き手も、あっという間に聞き飽きて、それを弾く気も歌う気も聴く気も無くしてしまう流れとなります。

だから楽曲制作は、できるだけ総合的に面白く、何度でも聞けるような楽曲にしなければならないと思ってます。



投稿後に気が付いた事柄。

人に気を使うという行為は、自分に対してもその分だけ犠牲を払っているという事になるということ。

もしも相手に対して気を使い過ぎれば、その人は相当な犠牲を払っているという事になります。

人に気を遣う行為は、良い行為とされているけれど、

あなたはどこまで、自分を犠牲にして、相手に気を使えますか?

もしくは、あなたは相手に気を遣うために、どこまで自分を犠牲にできますか?

恐らく

相手に気を使いすぎる人たちは、自分のことを相当犠牲にした生き方をしている可能性があるかもしれない。

相手に対する気遣いはほどほどに。

自分や自分の人生に対しての犠牲もほどほどに。

と思う。


「そんなに人に気を使ってたら、あなたの人生自体が、潰れちゃうよ。」というような地点まではいかないように、生きていった方がいいと思います。


世の中には全く相手に気を遣わないタイプの人達もそれなりにいるため、そういう人たちこそ、

「多少、自分を犠牲にしてもいいのでは?」と思ってしまうという事です。


今回の話は気を使いすぎるタイプの人達に言えることです。



余談として。

俺の指示は、俺の世界内では絶対的なものなので、ご注意ください。

俺の指示を甘く考えてる者達は、ただ絶望的な気持ちになっていくだけの話だと思う。

人には人の譲れない信念を持っていると思うけど、すべては程度の問題であり、

それが極端になっているのが俺の信念であり指示だという事です。

=それだけの才能を持っているという事だと思う。

才能や能力のない者が強烈な信念を持ったところで、「だから何?」と言われるだけなのでね。


あとは、その人に人を見る目がどこまであるのかにもよると思う。

人を見る目がなければ、相手の才能や能力にも気づけないわけだから、

その相手の言っていることに対しても、「大したことがない」と思うようになってしまうだろう。


「大したことがある」のに「大したことがない」と見誤っていけば、徐々に徐々におかしなことになり、

その人間は、人生的に失敗していくことになるだろうと思う。

さらには、そんな人間が社会的に増えていけば、この社会は混乱状態に陥っていくことは間違いないと思う。

それは良いことを悪いことと判断したり、悪いことを良いことと判断していくような現象に陥っていくからです。人を見る目のない者たちの価値基準によって起きてくることは、社会全体における争いの増加だろうと思う。

簡単に言えば、多数が本当に正しいことを正しいと判断できれば、争いは減るという事です。

もっと言えば、この社会はひねくれた者たちや、物事を正確に見れない者たちの増加によって、争いが拡大しているという事です。その増加によって経済も下降していくことになります。それによって、国民は全体的に苦しみが増えていくことになります。


それは「自分こそ正義」、「自分の感覚こそ正しい」と思う人間が無駄に増えてきたせいかもしれない。


かといって、その正義にしてもその感覚にしても、万人を説得できるだけの説得力はなかったりする。


今の社会状態においては、自分のテリトリーを拡大させるための、思惑や策略などが増えている気はする。その自分のテリトリー拡大戦略は、物事に対して見誤った感覚を持った勢力において、増加しているという事。

=つまらないのに面白いと言って広めたり、面白いのにつまらないと言って広めたりしていく風潮と同じ。


何が正しくて何が間違っているのかが、より不明確になってきている社会情勢だという事は肝に銘じておいた方がいいと思う。(俺の若い頃の時代よりも不明確になってます。=それだけ人間がずる賢くなってきたという事だと思う。人類全体の知能のわずかな上昇によって。)


人間が持つ知能の高さを計るためには、専門的な知識の理解力ではなく、この地球全体の中で起きている物事の状態をどこまで正確に理解しているかによってしか計れないです。

どこまで正確に物事を把握しているか、どこまで正確に物事を理解しているかという所が重要なところです。

それは人への理解力においても当然の話になってきます。

知能が低くなっていくほど、人を見誤り、社会を見誤り、世界を見誤っていくという事です。

知能の底辺クラスになると、だいたい物事の価値や善悪を真逆に受け止め、把握し、誤解していくことになります。

=知能が高くなるほど、物事を正確に把握し理解していくようになります。


そして、それらの状態を全体を見渡すかのように、全体を把握できるのは、知能が高い者たちだけです。

それはこの地球全体の物事を理解していく過程の一部だからです。


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