余談・1998年10月~2000年8月頃までを振り返ってみる。

2024年10月17日

1998年10月、当時俺は22才。浜崎は20才で、(不確かだけど)3thシングルを出し、avex側で売り出していた頃でした。俺は1995年(当時19才)にバカ高いパソコンを親へのローン返済という形で購入し、その当時からインターネットというものを好奇心で始めていたこともあり、1998年時点においては、プロバイダーは"avex"に加入していました。そういうこともあり、avex所属のアーティストの情報もすぐに入ってくる状況となっていました。そんな中で、1998年10月頃、浜崎あゆみのオフィシャル掲示板が出来たという知らせをavexサイトで見かけました。俺はすぐさまその掲示板へ行き、書き込みを始めました。ハンドルネームは"ピロン"。この言葉は「友愛」という意味で、高校時代に通っていた"ソクラテス教室"で使われていた本の中から選び、使うことにしました。個人的には"友の愛"という解釈で使っていました。それは「恋愛感情は抱かないぞ」という思いや「友達として関わるぞ」という思いを自分に強く言い聞かせてつけたハンドルネームです。

なぜなら、俺はその時点においても、恋愛関連(男女関連の問題)で、精神的にくたくたに疲れていて、精神的癒しを求めていたからです。「男女の争い事はもういい」「ただ芸能人を応援して楽しもう」という思いが強かったということです。一番最初の書き込みも、酒を飲みながら、ストレス解消みたいな感じで書いていた記憶があります。

その当時のインターネットの普及率は下のグラフの通りです。

(平成9年は1997年、平成10年が1998年ということになります。)

グラフから見て分かる通り、平成10年のネット利用者は全体で1694万人。その中で、まだ売り出し中の浜崎の掲示板に参加する人が限られていたことは想像がつくと思います。

俺が浜崎のオフィシャル掲示板に参加していたのは、1998年10月から1999年の末ぐらいまでです。ラストの書き込みがいつかは覚えていません。グラフでいうところの平成11年までです。そこで俺は公的にはネット上から姿を消したんです。もちろん、個人的には色々なところでホームページを作ったり、ブログを始めたりはしていました。


そういうわけで、その月日の中で何が起きていたのか?の話へ進みたいと思います。

まず1998年10月から、俺は日常の行事のように浜崎の掲示板に何だかんだと応援メッセージなどを書き込んでいきます。それからしばらくした後、浜崎に関わる数ヵ月前に詩の公募(万有という同人誌の第一回公募)へ送っていたある詩(『君への想い』)が入選したというハガキが届きます。授賞式を帝国ホテルで行いますという通知でした。(おそらくここに応募した詩人全員入選したんじゃないかと今では思います。)

そこで俺は自分の詩の才能に対して、「自分の今までの努力は間違ってなかったんだな」というような自信をつけることになります。浜崎を応援し、気分も晴れやかになり、さらに同人誌の公募入選という流れで、個人的には非常に気分的に上がっていた時期です。それは俺が22才の年末年始の頃でした。

それにともない、浜崎にも自分が書いたポエムを読んでもらえるように、自分が作ったホームページ上に載せ始めました。間違いなく浜崎は俺のポエムを読んでいたと思います。掲示板でもたまにそのアドレスを伝えていたこともあります。浜崎ファンで掲示板に来ていた人達も何人かは読んでいたと思います。

そういうこともあり、俺のラブポエムを知っている人は、1998年頃から、知っている人は知っているということになります。たとえ、愛のポエムに興味がなかったとしてもです。

そういう流れのもと、浜崎の掲示板から、俺のポエムファンになる人もわずかながらチラホラ現れてくる流れになります。

1999年はそういう年だったと思います。

しかし浜崎の人気は俺の世界とは比べもにならないぐらい1998年暮れから1999年に向けて、一気に上昇していきます。(1998年暮れ頃にあったオールナイトニッポンと言う浜崎のラジオ放送もきっかけとなってます。)

ファンとして俺が平常心でいられたのは、1999年のいつ頃までだっただろうか??

浜崎の俺に対する感情も上がっていき、浜崎のファーストアルバムのタイトルは「A Song for you」になったほどです。

この時期においても、浜崎&avexサイドは、俺がいる地点に向けて、ことあるごとにヘリコプターを飛ばしてきていました。

最初は俺も「自分の気持ちが伝えられない女なら、そういう訴えしかできないだろうな」と思ったし、俺としても、今までのさまざまな追われ方があったため、浜崎ならそうしてくるだろうなと思いました。そういう今までの流れがあったため、浜崎の訴えに関する現象も俺にとっては普通に思いました。(個人的には、予想通りの展開となっていました。ここでもまた自分の世界の法則に気が付いていきます。)

問題になってきたのは、だんだん、そのヘリの動きが浜崎の愛の重さと重なって来た頃からでした。1999年の暮れ以降は、苦痛でしかなくなったということです。

それは「俺にどうしろというのか??」という苦痛感でした。(この流れを角度を変えてみると、今まで一部の人や車や情念から追われていた流れから解放されようと浜崎にしがみついたあげく、今度は+ヘリにまで追われていくというような落語のような話です。新作落語にもいけそうな話です。)


1999年8月から俺は23才になります。来年の2000年3月は大学卒業という時期であり、アパートの立ち退き、進路問題、浜崎との関係性に関する問題など、大きな問題が脳裏に浮かんできます。

浜崎のオフィシャル掲示板も来年(2000年辺り)から浜崎のファンサイトが有料になるという話も持ち上がってきます。

そこで、23才の俺はこう思いました。

「このままファンではいられない。浜崎を助けていくには、直接的(現実的)じゃなければダメだ。それなら、作詞家としてavexに入れないだろうか?」と。

そこで、その当時浜崎の掲示板にも顔を出していた専務のMax松浦へ(メールアドレスも公開していたため)直通のメールで質問しました。

「作詞家の募集はしていませんか?」と。

返ってきた返答は、「アーティスト各自が歌詞を書いているため、作詞家の募集はしていません。」というようなことでした。

どちらの文章も俺の記憶に残っている内容だけで、正確な文面ではないけれど、だいたいそんな感じのやり取りです。

このMax松浦の"作詞家は受け付けていない"という内容により、俺が浜崎に直接的に関わる道はなくなったわけです。

そこで俺はこう思いました。「となれば、、浜崎にはもうこれ以上関われないな。」と。

そういうことです。このメールのやり取りは、確か1999年の10月か11月辺りだと思うんだけど、正確には覚えていません。だいたいその辺りです。

ただその時

俺は浜崎のような芸能人と関わるには、もしくは浜崎のような芸能人を助けていくには、「曲も作れないとダメなんだな」とは思いました。

それによって、「作曲してみようかな」という思いが1999年の暮れ辺りから芽生えてきたということです。

1999年の4月辺りに宇多田が「First love」というシングルをこの世に出してきたことも、俺の作曲への意欲のきっかけの1つになっています。実際には「First love」では反応せず、1999年11月に発売した「Addicted to you」で強く反応した気がします。なんという曲だという衝撃もありました。

浜崎といい、宇多田といい、俺には不幸性を抱えた女性に見え「助けたい」という思いが強く芽生えていたことも確かです。しかしまずは曲をつくれなければしょうがないという思いです。

俺が実際に曲を作れるのかどうか?まずその試しとして、wnindows98にあった子供の遊び用のような音楽ソフトでなんだかんだと試してみました。その結果、「これならいけるかもしれないな」と思い、2000年の正月に、"ケークウォーク"という本格的な作曲ソフトをお年玉で買い、作曲作業へ進んで進んでいきました。その2か月後に作った曲の一部のデータがこちらです。(”2000年1月~6月までの作曲音”の所です  )

2000年に入ってからは、俺の興味は浜崎から宇多田へと移っていきます。

宇多田に対してもオフィシャルサイトから応援メッセージを送るようになっていました。(掲示板ではなくメール形式のメッセージとして)

そんな中、2000年4月には日野市高幡不動のアパートから退去し、実家に戻らなければならないこともあり、

2000年の3月辺りだったんだろうか??ふと俺は、気分転換も含めて、3日間ぐらいかけて、三重県の方に旅にいきます。それは"阿曽"という名字の起源を探る旅でもありました。その旅から帰ってきた時に、俺はアパート内の異変に気がつきました。

何者かに侵入された形跡があったからです。

俺は即座に、「浜崎とavexの仕業だな」と思いました。そのあたりから、avexとのバトルが加速化していったということです。avex、マックス松浦=創価学会という事もあり、創価学会ともバトルようになっていきます。

実際、浜崎本人が「俺のアパートに侵入してもらいたい」と指示を出したとは思えません。Max松浦もそういう指示を出した可能性は低いけれど、専務という立場上その事は確実に把握していることは確かです。

そういう疑いの中で、浜崎に対しては、力のない一歌い手として同情の余地があったため、2000年6月頃に「もしも君が」という曲が出来た時には、浜崎に対して個人的ファンレターとして、その曲を送りました。

2000年(1月2月にはオーディションとして作品を送っていました。個人的に急いでいたためです。)当初 から東芝EMIにオーディションとして楽曲を送りながら、宇多田を応援している中でのことです。それによって、自分自身の気持ちが分からなくなり、状況的にも複雑なり、道がない状態にもなり、7月から一人でインドへ向かい放浪の旅へと進んでいくわけです。約2ヶ月半。そのインドの放浪の最中にも、浜崎に追われている幻想に襲われ、それから逃げるかのようにインド中を回っていました。

ここまでが1998年10月から2000年8月頃までの俺を取り巻く真実です。


これまでの話を聞けば、2001年10月に(当時25歳) NYで8万円ぐらいするヤマハのキーボードを買って背負って帰ってくる俺の決意が分かると思います。俺にとっては凄まじい決意だったんです。ピアノなど弾いたことない状態での購入だからです。「ぶっ飛んでいる」というのは俺のような行動のことだと思います。(「これが若さだよね」という行動力です。)だからこそ俺は”こんな状態からでは天才でなければやっていけない”と常に思っているという事です。小さい頃から音楽やっている人達も相当いるわけだから。音楽にも同情はいらない。何度も聴きたくなるような曲を作れるかどうかだけだと思う。

(主に東芝EMIをメインとした作曲家としてのオーディション応募は2000年(23歳)から2005年(28歳)まで続いていきます。もちろん全部落選です。東芝EMIからの落選はがきは徐々に分厚くなるほどたまっていきました。そして29歳になろうとした頃、最後に「ちょっと作曲の勉強をしたいな」と近場にあった”ヤマハ音楽教室”に作曲コースとして3カ月通います。ちょうどその頃、教室の「サマーコンサート」に向けた取り組みもあり、「新たに一曲作って発表しましょう!」という事になり、その3カ月間の中で※1『桜の散る頃』というピアノ曲を教室に通いながら作りました。

この曲こそが、自分の作った曲を”サマーコンサート”という形で人(演奏者=教室の先生)に弾いてもらった最初の曲となります。弾いてもらったのは菊池先生達です。(菊池兄妹による高音と低音部分に分かれてのピアノ演奏)そのことに対して俺が感激していたことは言うまでもありません。もちろん演奏中、真剣に音をチェックしていたことも確かです。演奏後「ちょっと最後の方テンポ早かったですね」と菊池先生に伝えたら「いや、ちょっと気持ち的に盛り上がってしまって」というようなことを言われたことを覚えています。(菊池先生兄妹は写真最上段左です。)

※1…この楽曲における盛り上がりの個所を一部掲載しました。(低音と高音の旋律に注目してください。この箇所が男女の掛け合いであり、男女の互いの言い分を表現したつもりです。)

⇈実際の写真をコピーして印刷したものであるため、紙が波打ってます。

その後、29歳になり「そろそろまともに働かないとな」と思い、運送業(2tトラック配送)へ進むわけです。そこで作曲への道を諦める決意をします。しかしその3年後、再び作曲することに目覚め、ケースに封印したキーボードを取り出し弾き始めたという事です。この時期からは、作曲家になる目的が俺の中で変わっています。いい曲を作るためだけに作曲を進み始めたという事です。それ以降どんなオーディションにも一切楽曲は送っていません。もはや送る気もしない状態です。そしてここ(33歳ぐらい)から孤高の作曲活動が始まっていくわけです。) 


ちなみに、浜崎とavex側は、それらの真実を隠蔽するため、そして世間を欺くため、相当ウソで塗り固めた情報を今までずっと流してきています。(1998年1999年のネットユーザーの証言が少ないために、今まで騙し続けることができたんだろうと思ってます。)当初からの浜崎ファンですら「なんだコイツ?」と思っているぐらいでしょう。それに浜崎には作詞の才能はありません。文才もありません。全部ゴーストライターが作っています。世間はavexが流す情報に騙されているだけです。それらがつもり積もって、信用性をなくしていき、今やユーセンに買収された子会社と成り果てているということです。

Max松浦に言いたいことがあるとするなら、自分で俺の才能を断っておいて、浜崎の愛情を代弁していたヘリコプターを飛ばしてくる神経が信じられないということだろう。この問題の全責任はMax松浦にあるといっても過言ではないです。Max松浦は、今までもずっと人のせいにして責任逃れをしてきています。「それは俺、知らねぇよ! それは俺、関係ねぇよ!」と言いながらです。その責任感の低さが今のavexという会社のありようなんだと思う。1998年の暮れから、浜崎あゆみの世界に深みを与えてきたのは俺です。影のプロデューサーぐらいの勢いはあったと思う。実際の浜崎に深みはありません。俺が掲示板経由で関わったから浜崎の楽曲に深みが出てきたんです。

アーティストというのは深みがある程度ないと、そこまでは売れないものなんです。エイベックスの楽曲なんて、トータルで見ても中身のない楽曲が多いんです。ノリを主流においたレコード会社だからです。そんな中で、浜崎あゆみは深みをつけてスターダムにのし上がっていったということです。

1998年の年末だっただろうか??”浜崎あゆみのオールナイトニッポン”をラジオで聞いて、掲示板に書き込んだ記憶のある人は、どれぐらいいるだろうか??

俺はあの当日から翌日にかけてビックリしていました。今まで浜崎の掲示板はポツポツとしか発言がなかったのに、あのラジオの直後においては、浜崎の掲示板は爆発するぐらいコメントの嵐となっていたんです。

何ページにも渡って感想が書き込まれていて、いつも書き込んでいた人たちが書き込む余地もなかったほど。「こんなにこの掲示板を見てた人いたの??」状態だったという事です。

覚えていますか?あのラジオの後、浜崎のオフィシャル掲示板に書き込んだ人達は。

”ピロン”というハンドルネームで書き込んでいた人間のことも覚えていてくれるとありがたいんだけど。毎回俺が書き込むと「しーん」としてたからね。次に書き込む人が全然出てこないんだよね。半日以上その後に誰も書き込まなかった日もあったし、凄まじいオーラ出していたいたみたいなんだけどね。”ピロン”の書き込み周辺においては。「俺のコメントでまた止まってるよ!」みたいなことがよくありました。(それを問題視したavex側は、管理人を登場させ、俺のコメントの後には浜崎掲示板の管理人がコメントして、場を和らげるという策も催していました。もちろん管理人はハンドルネームで書き込んでくるわけですが。今俺からその管理人に言えることは「お疲れさまでした!」という事だけです。

そういう時間や空間を覚えている人達はいないだろうか??


余談として

1999年ごろ自分のホームページで公開していたラブポエムは、知らないまに海を渡り、アメリカのハリウッド業界にまで知れ渡っていたことも伝えておきます。何もしなくても、いつの間にかハリウッド業界から、俺は注目されるようになったという事です。1999年あたりから俺の世界は一部ではあるけれど世界レベルになっていたという事です。アメリカ国内、もしくは欧州国内に、俺の名前が浸透してから、すでに非常に長い月日が経過しています。あっという間に俺の世界は世界レベルになってしまったという話です。知らない人は多いとは思うけれど。日本は島国であるため、世界情勢に疎いところがあるという事です。俺の世界レベル歴はもはやベテランクラスであるという事です。

1998年10月以降、世界中にちょっとした衝撃を与え続けていたLovepoemの一部はコチラです。

そういうレベルであるからこそ、世代を超えて多くの女の子たちが次々と俺のラブポエムを門をくぐっていくんだと思う。

世界は狙っていくものではなく、自然現象だと思う。世界レベル歴は20年越えなので、そのことを断言します。俺のラブポエムは世界レベルだけど、俺の音楽は世界にはあまり届いていないと思う。しかしこれからもマイペースに自分がいいと思った曲を作り続けていきたいと思います。


※この流れの中で非常に重要な問題は、浜崎、max松浦、avexが行った一部の犯罪的行為は、やがて芸能界で受け継がれていったことです。それをもっとも引き継いだのが北川景子周辺の輩たちです。

それらの問題的な事柄もすべて俺は把握しています。罪的には軽くはなっているけれど、浜崎たちの真似をしているという点において、俺は問題視しているという事です。

その後に俺に引き寄せられた芸能人女子の周辺においても、似たような犯罪的行為が行われていたという事です。

それ以降の若手女子達やその周辺の男達は、それらの犯罪的行為をマネしていく傾向があるという事です。

だから最も罪深いのはavexサイドという事になるわけです。自分たちの罪をうやむやにして終わらせ、それでもうまくいくという事例を作り出してしまった罪があるという事です。自分たちの犯罪的行為はバレることがないという事例を作り出してしまった。今現時点においても、それらの罪に怯えている芸能関係者達はそれなりにいる状態です。だから必死になって、俺のマイナス点をテーブルに乗せ、何とか逃げ切ろうとしているというという事です。

北川周辺の男達もまた罪深い連中で成り立っていることは、ここだけの話です。きれいな世界だとは思わない方がいいという事です。俺はその個人名を出せる状態です。スケールも小さいため、名前を出すほどでもないんだけど。ただ俺が神眼を持っていることだけは把握しておいてもらいたいと思う。


それと関係する余談として

2000年前半時点でピックアップする芸能人達の年齢はだいたいこうです。俺が23才の時点において

浜崎あゆみ 21才  現在の46才

宇多田ヒカル 16才(高校1年生) 現在41才

倉木麻衣 16才(高校1年生) 現在41才

北川景子 13才(小学生6年生) 現在38才

永野めい(たぶんお母さんの腹の中) 現在24才

2001年以降生まれの女性達に関しては、この時点ではまだ未知の状態だけど

俺の世界に対して何らかの使命感を持って生まれてきている女の子が、その中にそれなりにいることを願います。

という具合です。

時間の流れというのは面白く、興味深いものだと思います。



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